代表の昔ばなし
昭和50年代から始まった「硬式空手道」ですが、私が習い始めたのは昭和50年代後半であり、「元祖硬式空手」を知っている1人でもあります。
そんな私の足跡を少しずつアップをして、後世に伝えていきたいと思いこのページを立ち上げました。
2021年5月5日(こどもの日) 浜風会 はまっこ道場 代表 角田 宜優
だいぶ時間が空いてしまいました…
第8回目です。
1996年10月27日
’96全日本硬式空手道選手権大阪大会 グランドチャンピオントーナメント
一般有段軽量級出場
27年前、25歳の頃です。
着実に試合実績を残し、大学院2年生で修士論文に追われる最中、これが学生最後の試合かな・・・と思いながら、
会長と二人きりで新幹線で前日大阪入りしました。
夕方から、弟のああちゃん先生(当時滋賀に居住)と合流し、なんばで3人で夕飯。
その後、安物のビジネスホテルに泊まるも、過去最高の緊張感と寝汗・・・
結局あまり眠れずに翌朝会場に向かい、途中道に迷って道を聞いたら、凄く冷たい大阪弁で返事されたことで会長となんだあいつ~みたいな会話も…鮮明に覚えてます(笑)
試合は、初の体重測定、医師の診断、後は試合実績の確認(TV放送のため関係者の方から)がありました。
この時は、硬式空手道を2000年のシドニーオリンピックの公開競技にするべく、凄く力が入ってました。
地区大会、全国大会で入賞実績の選手のみを集めた大会かつ、TVカメラが回ることもあって、皆すごく気合が入っていて、初戦から苦戦を強いられました。
まして、当時中部、関西地区で使い始められたこの薄い胴…試合は、ローキックも膝蹴りも投げも頭突きもガンガン入れてくる今のクリーンな硬式空手とはだいぶ違った激しい格闘空手でしたね(笑)
私は2回戦目で投げられて頭から落ち・・・ダメージを勝ち上がるたびに蓄積していった、そんな感じの大会でした。
準々決勝は、一番乗りにのっていた若手のホープでしたが、相手の蹴りをブロックした際に私の肘が相手の背足にあたり、
相手選手は骨折→救急車で搬送試合中断、準決勝へ。
準決勝の相手は、今や試合会場でも時たまお会いする、プロキックボクサー、新空手全日本王者、清水選手。
最初リードするもゴリゴリ前にでる力に敵いませんでした。
途中、ジャッジメントに対する内容に不満もありましたが・・・準決勝から放映されたTV映像も今となっては、懐かしい思い出となりました。
この歳になって、大会で審判をしていて一番思うこと。
それは、一般有段の選手は、審判より、技が入った入ってないということを一番分かっている。
ということです。
これは、一般有段で現役を長きにやった人にしかわからないんでしょうね。
この大会で立派なトロフィー+メダルを持って帰ることが出来ました。
ーーーその次の年に新入社員として大阪支店配属になるとは、何かの縁もあったのでしょうかね・・・
続く
2024年2月18日
代表 角田 宜優
第5回目です。
1994年5月29日
第8回日本硬式空手道平塚大会
(現 日本硬式空手道国際選手権平塚大会)
一般有段の部
大学に進学するのに1年間の浪人生活があったため、実際に一般有段で参戦するのは19歳の年からでした。
一般有段では中々勝たせてもらえず…かつ体重制限のないオープントーナメント(この大会も40名以上いました)で苦悩の中、この大会の一般有段の部で過去二回参戦。
一回目は当時最強の林崇選手(上智大学)に同じ大学生と思えないくらいの強打を浴び一回戦で負け、しばらく落ち込みました。
その次は準々決勝まで行けました。
そして今回ようやく、5試合目の最後の決勝戦にたどり着くことができました。
対戦相手は、全日本硬式空手道選手権大会重量級チャンピオンの斎藤修選手と。
普段より隣市の道場の大先輩であり、当初有段者のいない所属道場であったので、
出稽古で沢山教わった方でした。
結果、運よく結果を残すことができ、私が長年やってきた空手に自信を持つことができたきっかっけの大会でもありました。
二枚目は、師匠である植原先生に賞状とトロフィーを直々頂き、この上ない感動をしたことを今でも覚えております。
三枚目は、当時所属していた拳友会の仲間との写真。
左は高校の先輩である井上さん(一般有級の部優勝)、右は高校の後輩である故加賀谷選手(高校三年生の部優勝)。
大学の勉強、研究を一生懸命やった残りの時間は、全て空手と筋トレに費やした彼女のいない22歳の青春でした(笑)
2022年1月30日
代表 角田 宜優
先輩に撮影してもらったものなので、日付あってません…(笑)
TV放映された動画です(終盤にダイジェストがあります)
第4回目
1997年5月25日
第11回千唐会東京都空手道選手権大会
過去5,6回出場してましたが、難しい他流派ルール(先取三本)もあり、準優勝、3位を繰り返していました…
この年の4月に社会人となり、7月1日から大阪支店京都営業所へ配属が決まっていて、赴任前最後の大会出場でした。
結果、一般有段(軽量級)優勝をし、大会で一人しか頂けないMVPである最優秀選手賞も頂くことができました。
残念ながら前の年までのパンフレットはありましたが、当該回のパンフレットが見つからず…
記念の写真は、私の師匠(拳友会 植原会長)と当時拳友会指導員(現、心嘉会館館長)浜田先生、
普段からご厚意にして頂いていた、分裂前の全日本硬式空手道連盟審判部長であった肥後先生、
当時女子最強と言われていた肥後姉妹の妹さんの和嘉子コーチ、多摩美術大学空手道部の皆さんとの写真です。
多摩美術大学の学生さん達は、私の所属していた道場の大会準備等もいつも一生懸命お手伝いを頂き、
礼儀作法もしっかりされていて、大学の空手部の素晴らしさを感じておりました。
みんな元気かなぁ・・・
24年前の思い出でした。
2021年10月23日(勤労感謝の日)
代表 角田 宜優
三回目です。
1988年8月21日(日)
第4回全日本硬式空手道選手権大会
(国立代々木第二体育館)
硬式空手道が分裂して初代会長 鈴木正文先生率いる財団法人 東興協会 全日本硬式空手道連盟主催の全日本大会。
ーーー私は高校二年生の部で出場。分裂後にもかかわらず、参加人数38名のトーナメントでした。やっとの思いで三戦してギリギリ入賞🥉
試合内容はあまり覚えてないです😅
有段戦より中学、高校生の各クラスの方が参加者が多かったのが印象的でした。
2回目はこちら
~私のデビュー戦~
1985年9月8日(日)
第4回横須賀硬式空手道選手権大会
(横須賀市久里浜体育会館)
当時の大会最高顧問は「小泉純一郎衆議院議員(後の内閣総理大臣)」でした。
実際、会場にもいらして激励のご挨拶があったことを覚えております。
ーーー試合はというと、、、中学二年生の部で出場。
稽古でもまだ、防具もほとんど付けたことが無かった感じだったと思います。
二回戦目に中学生・高校生の時に何かと対戦することになる彼と…
パンチのラッシュを何回も貰い…惨敗。
当時、私の師匠の口癖は「角田横向くな!」でした(笑)
臆病者の私は、攻撃されると顔を背けてしまうのが癖でした。
しかしながら、その彼をも抑え込んで優勝したのは師匠の息子さんでした。
結果、デビュー戦は運良く三位入賞で、トロフィーがその時の写真です。
賞状には小泉純一郎議員の名前が入っておりました。
スーパーセーフ面は、試合が終わると必ずと言っていいほど、おでこが痛くなりました。
そして、駅までの道のりをみんなで話をしながら、帰ったなぁ…
口の中の血の味を味わいながら(笑)
〜続く〜
初回はこれです。
まだ、硬式空手が二つに分裂する前で「全日本硬式空手道選手権大会(夏の代々木第二)」の前身の大会です。
この頃は、写真の大物ボスが会場に直々いらっしゃいました。
ーーーこの日も暑い代々木でした。
(今は改修されたから少しは空調改善されたのかな、ちなみに施工は私が働いている会社です。笑)
試合は、高校一年生の部に出場し、決勝で負けてしまいました。
対戦相手の会派の会長は、一ノ瀬亀太郎先生と言う方で当時良くテレビに出演されてました。
「舐めたらあかんぜよ!」
が口癖だったのを良く覚えてます。笑
この頃の自分は、大会で優勝しようって考えてませんでした。
ベスト4に入ってトロフィー持ち帰れればいいって感じだったと思います。
立派なトロフィーを頂いて喜んで東海道線で帰ったことを覚えてます。
そんな硬式空手を始めて三年くらいの時の大会でした。